なぜ、あなたはスポークン・ワードを考えるときに混乱してしまうのでしょう。それは「SPOKEN WORDSとはアメリカの音楽産業の文脈をバックボーンに、日本に『輸入』もしくは『翻訳』されている途上のアート・スタイル」である、という点で、迷ってしまうからです。
しかし、ここでは一旦気に食うか食わないかを捨てて、向こうの文脈に即して、用語のポイント(しかも最小限)を押えましょう。そして、その後に日本語のスポークン・ワードの「これまで/これから」を観てみましょう。
よろしくお願いします。それでは行きますッ!
1.アメリカの音楽産業上の三つの用語
「スポークン・ワード」(大きな分類)
↓
「ポエトリー」(中くらいの分類)
↓
「ポエトリースラム」(細かい分類)
はっきり申し上げて、この3つの用語さえ押えれば、何の問題もありません。ちょっと安心するでしょう? ではポイントをあげます。
@スポークン・ワード
日本に入ってきたコトバの順番でいくといちばん新しいので、みんな錯覚をおかしやすいのですが、これがいちばん古く、大きな分類となる、それがSPOKEN WORDSです。
そもそも、アメリカの西部開拓時期に、酒場では、優秀な牧師の説教はすぐれたエンターテインメントとして機能していました。西部の荒くれ者たちに受け入れられるのは、活字文化ではなく、話芸の文化だったのです。
ちなみにコカコーラ社の初期のセールスマン・トークの指導は、設立者の兄弟の牧師さんだったそうで、ここから更にあとのキング牧師まで考えても、SPOKEN WORDSという文化が識字率の低い時期からのアメリカの宗教・政治・資本主義までに根づいた文化の重要基盤であることがわかります。
ちなみに、日本語の歴史では、明治期以降の言文一致運動によって「言(=話す)」ことよりも「文(=活字)」の優位性をたもたされることによって、近代化を果たした歴史があるのですが、それはまだ約120年ほどの歴史しかないことも踏まえるべきです。
ともあれ、そのような訳でアメリカではレコード店の棚のジャンルに“SPOKEN WORDS”が登場するのが早かったのです。説教やスピーチ、詩の朗読、コメディのレコード、果ては変人哲学者が恋人に送りつづけたテープの音源まで(これらはすべて実在するものです)。音楽によって効果が高められていようがいまいが、ストレートに「声」と「ことば」に重きを置いたレコードは、アメリカの大衆文化に大事なポジションを占めてきているのです。(…レコード店のひとが困ったときに差す最後の棚の場所、という気もしますが。)
なお、日本で最初に音源化されたレコードのひとつは古典落語などですし、三島由紀夫や小林秀雄の講演のカセットブックなども多数存在します。(…この「カセットブック」という名称は日本的な響きがします、と思うのは筆者だけでしょうか。もちろん同種のものは既にアメリカにもあります。)
このように、さっと見れば「話す」ことと「活字」であることの優位性のちがいが、日本とアメリカでほぼ逆転しているために、戸惑いがちですが、その意識の差を越えれば“SPOKEN WORDS”は実はさして新しいカテゴリーでは、日本語においても、ないのです。
但し、その「意識の差」と新しい名称としての「SPOKEN WORDS」をどう受容するかが、今後大きな課題となるのはまちがいありません。
Aポエトリー
前段をふまえられたら、ここからは簡単です。ポエトリーとは、そのまま「詩」です。しかし、ここで「ポエトリー」と「ポエトリー・リーディング」の微妙なニュアンスの問題が出てきます。「ポエトリー」といったときに趣きとして、パフォーマンスを主体にした「詩」の実演というふうに響きます。「ポエトリー・リーディング」といったときにはテキスト(本やノートなどの活字)を口頭で正確に読みあげる「詩の朗読」というふうに響きます。
実際に、1950年代にBEATの詩人たち(アレン・ギンズバーグなど)が起こしたサンフランシスコの朗読シーンの分類の言葉として、前者をパフォーマンス派、後者をテキスト派と呼んでいるようです。
また、これは相当微妙な語感の差ですが、パフォーマンス主体の「詩」はアフリカン・アメリカンやラテン系の人たちなどがする場合で、テキスト主体の「詩の朗読」は白人優位の高級な遊びという含意が、暗にあるようです。(テキスト派の場合は「識字能力がある」ことが前提になっているのは、日本では見落としやすいポイントです。)
故に、アメリカの音楽産業で「ポエトリー」という呼び方で音源がカテゴライズされているのは、さまざまな意味があります。
しかし、ここでは「ポエトリー」とは、アカペラで「詩」をレコーディングしたもの全般としておきます。この場合「詩」の効果を高めるすべての要素は「声」であるのは当然なことです。(元の「詩」の「ことば」が重要なのは、さらに言うまでもありません。)
それでは、最後の細かい分類を見てみましょう。
Bポエトリースラム
これが一番最近にできたとされるジャンルとなります。語源としては、1980年代半ばに詩人のマーク・スミスがはじめた“詩の一本勝負(ポエトリー・バウト)”もしくは“詩の競技会(ポエトリー・スラム)”にあると考えられます。競技会としての「スラム」には「全勝(グランド・スラム)」もありますが、同時に大切なニュアンスとして「スラム」には「ぴしっと打つ(ように的確な表現をする)」という意味があることも申し添えておきます。
この詩の競技会は「ニューヨリカン・ポエッツ・カフェ」で本格化しはじめ、ソウル・ウィリアムズなどのスター詩人を輩出します。これを受けてMTVがスポークン・ワード(詩の朗読=ポエトリースラム)の専門チャンネルを作ります。こうしてジャンル化したポエトリースラムは、口語体の詩と伴奏、そして劇的な演出をともなったパフォーマンスを指します。
もちろん、このパフォーマンスの最大の主役は「声」と「ことば」です。ソウル・ウィリアムズは「俺はラッパーではなく詩人だ」という発言をくりかえしています。これは逆に言えば、黒人の彼が音楽にのせて、詩をパフォーマンスするさまが、ヒップホップと見分けがむずかしいということでもあります。“孤高の詩人”の胸中はいかほどなのか余人にはわかりません。
ともあれ、ポエトリースラムとは、ヒップホップに近い、もしくはパフォーマンス色の強い「詩」と「音楽」の結びついた音源のジャンルの名前です。
2.日本語のSPOKEN WORDSの「これまで/これから」
と、題しておいて、そんなことを知っているひとがいたら、ワタシが教えて欲しいものです。
だが、たとえばお坊さんが木魚にのせて読経するのは、日本の古いポエトリー・リーディングだと思うのは私だけでしょうか。また明治の言文一致運動によって切断されていますが、そのまえの江戸期をみれば常磐津や都都逸など特定の節まわしを持った庶民の詩がありました。
また戦後史だけをみても、戦前にカナダに生まれ、早くに国際色をついだ白石かずこが、活字の詩と同時に、世界的にポエトリーリーディングの活動を行っているのも見のがせません。偉大な先達です。
また、ポエトリースラムがヒップホップと敢えて相違するところを言えば、「音楽」からも自由に「声」と「ことば」がパフォーマンスができるところをあげられますが、左とん平の「とん平のヘイユウブルース」は、日本で早くにそのような方法論を確立したマスターピースといえるでしょう。(オリジナルの発表は1973年だそうです。)
このように“SPOKEN WORDS”は日本語のなかに可能性を発見していく、現在までの文脈では評価できなかった日本語の表現者・作品を浮上させる、そんな可能性に満ちたコトバなのです。
3.終わりに
ブックリスト、洋画リスト、用語ポイントと執筆しましたが最後に声を大にして言いたいのは「死紺亭柳竹の言っていることはデタラメだと思ってほしい!」ということです。
これは死紺亭柳竹という日本語のSPOKEN WORDSのアーティストとしての活動指針のための極私的なものだと言ってもさしつかえありません。
それでも私の書いたことを、みなさんが勝手に読んで、勝手に更新していくことが、結局は日本のスポークン・ワードの「輸入」と「翻訳」に良い結果をもたらすことを信じています。
以上、SPOKEN WORDSレーベル「過渡期ナイト」代表、死紺亭柳竹でした。浅才で乱文のことのおわび申し上げます。失礼致します。
2005年3月
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